韮崎市ふるさと偉人資料館

ふるさとの先人に学び、現在(いま)に活かす

登録日:2021/04/01 23:17:57

企画展「峡北女子教育の先駆者 細田さだの」

カテゴリ 歴史   文化  
第12回企画展「峡北女子教育の先駆者 細田さだの」
 
■会 場   韮崎市民交流センター・ニコリ1階 韮崎市ふるさと偉人資料館
■会 期   令和3年(2021)4月1日(木)~令和4年(2022)3月21日(月・祝)
■時 間   9時~17時
■休館日   月曜、祝日の振替休館日等(画面左の開館カレンダー参照)
■お問合せ  韮崎市ふるさと偉人資料館 0551-21-3636
 
 
かつて、北巨摩郡中田村小田川(こたがわ)(今の韮崎市中田町小田川)にあった国本(こくもと)女学校をご存じですか?
明治35年(1902)に細田さだのという女性が開校し、主に裁縫を教えました。
開校当時、峡北地域(今の韮崎市・北杜市、および甲斐市旧双葉町)には私立の女学校はなく、先駆けと言える存在です。
 
細田さだのより早く、明治33年に甲府市に山梨裁縫学校(今の伊藤学園甲斐清和高校の前身)を開校した伊藤うた(今の韮崎市穴山町出身)はよく知られていますが、細田さだのはほとんど知られていないでしょう。
 
明治時代は農作業や子守などで小学校に通えない女子が多く、ようやく明治30年代に女子の小学校就学率が男子に近づいていきました。
山梨県では経済の不振や水害などにより、長い間女子の就学率が低迷しましたが、明治34年に60%を、38年に90%を超えました。国本女学校が開校したのは、このような上昇期にあたりました。
小学校を卒業した女子が段々増えていくことで、卒業後の進学先も求められるようになりましたが、山梨県では県立の高等女学校(明治35年開校)や私立の女学校が甲府市にあったものの、峡北から通うには経済的負担がかかりました。
 
農村の女子が通いやすい女学校をつくるため、さだのは子育てをしながら裁縫科の教員免許を取り、夫と協力して小田川の自宅で国本女学校を開きました。
農閑期に開講し、生徒は今の韮崎市だけでなく北杜市からも来て裁縫などを学びました。
 
明治20年代後半から、国は女子の就学率を上げるため尋常小学校で女子に裁縫を教えることを推奨しました(裁縫科は高等小学校では女子の必修科目だった。明治40年からは尋常小学校でも女子の必修科目になった)。
そのため裁縫教師の需要が高まり、裁縫を学ぶことで教師になれる機会が増えました。
国本女学校が開校した当時はこのような時代背景もありました。
 
また、さだのは幼くして父を亡くし祖母に育てられたことから、女性が生計を立てるための技術や知識を学んでおく必要を感じていたのではないかとも思われます。
 
残念なことに、さだのは開校から3年後に34歳の若さで亡くなりましたが、家族が志を引き継ぎ、国本女学校は昭和23年まで46年間続きました。
女子が教育を受けることが当たり前ではなかった時代に、学びの場を作ったさだのの生涯を紹介します。