韮崎市ふるさと偉人資料館

ふるさとの先人に学び、現在(いま)に活かす

登録日:2020/05/24 10:27:07

企画展「穂坂直光」ミニ解説④ 甘利山の境界争い

カテゴリ 歴史   文化   自然  
※この企画展は終了しました
企画展「穂坂直光」ミニ解説④ 甘利山の境界争い
 
休館中でみなさんにお見せできないでいる企画展「甘利山に木を植え 心に緑の大切さを伝えた 穂坂直光」
この場を借りて、展示の概要をご紹介していきたいと思います。
(*令和2年(2020)6月2日より展示を再開しました)
 
第4回は「甘利山の境界争い」。
穂坂直光さん(1847-1920、現・韮崎市大草町若尾出身)は明治時代に荒廃した甘利山に木を植え、後世に山の恵みを受け継いでくれた人ですが、直光さんがよみがえらせた甘利山とはどんな山なのでしょう?その歴史をたどります。
今回は、江戸時代に巻きこった甘利山の境界争いのお話です。
 
 
【甘利山と甘利昌忠】
 前回は、戦国時代の武田家重臣・甘利左衛門尉昌忠が甘利郷の領民に甘利山(古くは深草山と呼ばれていた)を共有地として与え、山にかかる税を免除したという言い伝えを紹介しました。(さわら池の毒蛇退治の伝説)
 江戸時代、甘利山は甘利郷十ヶ村(今の韮崎市旭・大草・龍岡町に相当する地域)の共有地として薪炭や芝草・木材を得る大切な場所であり続けましたが、共有地である根拠は甘利昌忠が与えてくださったからだと甘利郷の人々は考えてきました。
 そのため甘利郷の人々は甘利昌忠を長く尊敬の対象とし、明治39年には甘利氏の館跡の大輪寺(旭町)に「甘利君遺徳碑」を建立、昭和11年にはさわら池の近くに甘利昌忠を祀る甘利神社を建立しました。
甘利神社では毎年山開きの神事が行われています。
 
甘利神社
 
 
【激しい境界争い】
 燃料や肥料など山の恵みをもたらしてくれる甘利山は、甘利郷以外の村にとっても「利用したい!」と思う良い場所。ゆえに江戸時代には、甘利山の北側の村々(今の韮崎市清哲町・神山町)と南側の村々(今の南アルプス市有野など)が甘利山に入って資源を取ったり道を作ったりして、甘利郷十ヶ村と対立することがしばしばありました。
 甘利山の境界をめぐって激しい争い・裁判が何度も起こり、中々決着せず江戸の奉行所まで差し送りになったこともありました。
 
・享保8~14年(1723~29)
  鍋山・武田・北宮地・水上・樋口・河原部の6ヶ村との甘利山の北境をめぐる争い。
 
・文化13~文政8年(1816~25)
 有野村ほか25か村との甘利山の南境をめぐる争い。
 さらに北境をめぐって武田・青木など19か村も加わり、合計55か村に及ぶ大山論になる。
 江戸勘定奉行へ訴える。
 
・嘉永元~安政6年(1848~59)
 有野村と再び南境をめぐる争い。江戸勘定奉行へ訴える。
 
*『韮崎市誌』および村上直「近世における入会山論の背景ー山梨県甘利山を中心としてー」(『甲斐史学』第1巻、1982年)などを参考にしました。
 
 県道甘利山公園線の道沿い(研場という場所)に立つ「甘利山財産区碑」の碑文によれば、甘利郷の人々は不眠不休で山を見回ったり、裁判にかかるお金を用意するためお葬式や結婚式の費用を節約したり、夜はお年寄りから子供までわら細工をつくってお金を稼いだりしたと伝えられています。
 
甘利山財産区碑
 
 
 明治時代になり、穂坂直光さんが甘利山をよみがえらそうと奮闘したのは、数百年にわたって先祖が守り抜いてきた山だったから、ということも理由であったと考えられます。
 
 
【境界争いを歌った民俗芸能「綾棒踊り」】
 かつて甘利郷と呼ばれた韮崎市旭町・大草町・龍岡町には「綾棒踊り」という民俗芸能が伝わっており、韮崎市の無形民俗文化財に指定されています。
綾棒踊り(韮崎市ホームページ)https://www.city.nirasaki.lg.jp/bunka_kanko_sports/bunka/4/2768.html
 
 甘利山の境界争いを歌にして、機織りに使う「綾棒」という部品に紅白の房を付けたものを持って踊ります。
 江戸時代に起こった有野村をはじめとする西郡(にしごおり、今の南アルプス市域)の村々と甘利郷との境界争いを数え歌にして、甘利郷の訴えが正しいことを主張する歌詞になっています。
江戸で人気の歌舞伎を題材にした「白木屋お駒才三」という歌の替え歌と考えられています。
 
一ツトノーエ サンノーエ
一つ 新版 甘利山 山論さわぎをお聞きやれ(コノジョーカイナ)
二つ 深草山の栗平 峰には甘利が陣取った(〃)
三つ 南の沢辺の中程に 有野の水下八カ村(〃)
四つ 横道喧嘩は西郡 相手の有野へ加勢人(〃)
五つ いつから遠目をつけおいて 下から上るを待ち伏せる(〃)
~略~
十九 草山木山の絵図面は 証拠の書物甘利あり(〃)
二十 重々言い分ある故に 江戸まで願書を差しいだす(〃)
 
*歌詞は『韮崎市誌』などを参考にしました。
 
 綾棒踊りの起源については、境界争いの際に甘利郷の人々が境界まで繰り出して踊った、争いに勝った喜びのあまり下条中割の老女が綾棒を持って歌い踊った、などと伝えられています。
 明治時代末期から大正時代くらいまで地元の盆踊りでなどで踊られていましたが、その後衰退し忘れられて行きました。
 しかし、昭和30年の調査を機に復活し、現在は甘利小学校を中心に伝承活動が行われています。甘利小学校の運動会や韮崎市のお祭り「武田の里フェスタ」で披露されるほか、公民館での伝承活動も行われています。
 
*次回は明治維新と甘利山の荒廃についてお話しします。