韮崎市ふるさと偉人資料館

ふるさとの先人に学び、現在(いま)に活かす

登録日:2020/05/15 14:51:58

企画展「穂坂直光」 ミニ解説③ 甘利山の歴史

カテゴリ 歴史   文化   自然  

※この企画展は終了しました

企画展「穂坂直光」 ミニ解説③ 甘利山の歴史

 

休館中でみなさんにお見せできないでいる企画展「甘利山に木を植え 心に緑の大切さを伝えた 穂坂直光」

この場を借りて、展示の概要をご紹介していきたいと思います。

(令和2年(2020)6月2日から展示を再開しました)

 

第3回は「甘利山の歴史」。

穂坂直光さん(1847-1920、現・韮崎市大草町若尾出身)は明治時代に荒廃した甘利山に木を植え、後世に山の恵みを受け継いでくれた人ですが、直光さんがよみがえらせた甘利山とはどんな山なのでしょう?その歴史をたどります。

 

【甘利山とは?】

甘利山は韮崎市の南西部、韮崎市と南アルプス市の境に位置する標高1,731mの山です。

この写真は、七里岩の先端にある平和観音の付近から西側の山々を望んだものです。(2020年1月撮影)

*写真の中の鳳凰三山の各山の名称は国土地理院の表記に従いました。

 地元の韮崎市の人は「薬師岳」「観音岳」「地蔵ヶ岳」と呼ぶことが多いです。

甘利山は、約2,500万年前に海底の火山活動によって海の中にできたものが、そのあと隆起して今の高い山の姿になりました。

頂上のあたりは平らで、古くから採草地として人の手が入って半自然草原になっており、レンゲツツジの名所です。

また、標高1,240m地点には、湿原を形成している「さわら池」があります。

平成26年(2014)6月、甘利山を含む南アルプスがユネスコエコパークに登録されました。

ユネスコエコパークは、豊かな生態系を有し、自然保護と地域の人々の生活とが両立した持続的な発展を目指すモデル地域です。

その中で、甘利山は「緩衝(かんしょう)地域」に含まれています。緩衝地域とは、厳しく保護を行う「核心地域」に隣接し、適切な保護を行いながら環境教育のフィールドワークなどに活用されるエリアです。

 

【古代から中世の余利郷(あまりごう)】

甘利山のふもとの十ヶ村(いまの韮崎市旭町・大草町・龍岡町に相当する地域)は、古代には余戸郷、のちに甘利郷と呼ばれました。

甘利山は、平安時代の終わりから鎌倉時代以降には、村人がたき木などを取る入会地(いりあいち)になっていたと考えられています。

 

【甘利昌忠と甘利山】

甘利郷は、平安時代の終わりころに甲斐源氏の武田信義の孫・行忠の領地となり、行忠は甘利氏を名のるようになりました。

戦国時代には、武田信玄の重臣として名高い甘利備前守虎泰と、息子の甘利左衛門尉昌忠が甘利郷を治めていたと伝えられています。

甘利昌忠は領民に対し、甘利山が甘利郷十ヶ村の共有地であることを認め、山にかかる税を免除したという言い伝えがあります。

↓↓どんな言い伝えなのでしょう?

 

【さわら池の伝説】

甘利山の山中にある椹池(さわら)には、甘利昌忠に関する以下のような言い伝えがあります。

(『韮崎市誌』や山寺仁太郎『甘利山』を参考にし、易しい文章で記述しました)

~天文14年(1545)、甘利左衛門尉昌忠の二人の子どもが、深草(ふかくさ)山(今の甘利山)のさわら池でフナを釣っていると、池から大きなヘビがあらわれて、二人を水の中に引きこんでしまいました。

昌忠と領地の村人たちは必死にさがしましたが、子どもたちは見つかりませんでした。

怒った昌忠は、村人たちに命令して、汚ないものを池に投げ入れたり、池のまわりに生えていた椹(さわら)の木を切って投げこみ、池を埋めてしまいました。

すると、ヘビは赤牛に化けて逃げだしました。深草山の頂上の奥にある大笹池にかくれましたが、そこも追われ、野牛(やご)島(今の南アルプス市)の能蔵(のうぞう)池まで逃げました。

甘利昌忠は、村人たちがヘビの退治に協力してくれたことに感謝し、深草山を与え、山にかかる税をおさめなくてよいといいました。

このときから、深草山を「甘利山」と呼ぶようになりました。~

 

さわら池(2019年10月撮影)

 

甘利郷(いまの韮崎市旭町・大草町・龍岡町に相当)の人たちにとって、甘利山は生活に欠かせない燃料や肥料の採取場所として共同で利用・管理する大切な場所でした。

その大切な山を甘利郷に与えてくれたと言い伝えられる甘利昌忠は、長い間尊敬の対象になってきました。

現在も、甘利山の山開き(5月5日)は甘利昌忠を祀った「甘利神社」で執り行われています。

 

*次回は甘利山の境界を巡る争い(山論)についてご紹介します*